映画「チャッピー」は良い意味で期待を裏切られた、想像以上に哲学的な作品でした。

アラサー男子の日常

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良かった。凄く、良かった。

予告編のイメージ以上に、深く広く考えさせられるロボット映画。いや、ロボットじゃなくて「ドロイド」と表現されてた所も良かったなぁ。(※ドロイドはスターウォーズの世界では「ある程度の意思を持ったロボット」として定義されております!)

ロボット映画というよりも、近未来的・科学的・そして哲学的な映画だと思いました。チャッピー。

個人的にグッときたポイントのまとめです。

※ネタバレありなので、映画を見た方にぜひご覧いただきたいのです。

チャッピーのキャラクターの魅力

前半のチャッピーのたどたどしい動きや片言での会話の言葉使いは、まるでスターウォーズのC-3POの子供時代を見ているような気分にさせられましたね。(C-3POに子供の頃の状態があったのかどうかは分かりませぬが)

そして、チャッピーの魅力は「ロボットが人間っぽく成長」することではなく、「人間そのものらしく成長」していくこと。

赤ん坊のように見るもの全てに対して警戒を抱くような状態から、何にでも興味を持つ幼少期のようになり、周りの人間の振る舞いに自分の行動を合わせ、自分の思うようにいかない理不尽さに苛立ちを抱えるような青年期を経て、誰かの為に行動をする事を覚える成人期を迎える。

特に印象的だったのは、ディオンからの声かけを反抗期のように無視するシーンのチャッピーでした。

誰かに反発する際の姿って、どうしてあんなにも人間らしく映るのでしょうね?反発する=そこにしっかりと自分の意思を感じるから、なのかな?

AIロボット系の作品は、

「人間からの声掛けに反応する=人間っぽい」

と感じる事が多いはずですが、この作品内では反対に、

「声掛けに反応できるはずなのけれども、敢えてしない=更に人間っぽい」

という表現がされていたシーンに、考えさせられること多数。

 

自分の意思を持つ事って、やっぱり大事なんだろうね。

終盤30分間で一気に急展開する哲学的なストーリー

作品の前半は予告編からも想像が容易であるような内容でしたが、後半の30分くらいで一気に、人間とは?意識とは?という事を嫌でも考えさせられるような生命倫理を問われるような内容や哲学的なテーマを帯びた展開に。いやぁ、好きですなぁ…こういった、「考えさせられる」映画作品。もしもこういった世界が本当に実現したとすると、自分はいったいどうするのだろう?という(無駄な)事を考えるのは、大好きなのです!

特に、チャッピーが自らの”意識”データを分析解析するシーンにて。

「解析不能」と表示され続けていたPC画面の出力結果が「成功」に変わったあの瞬間、劇場内にて思わず「えっっっ!?」と一人で声を上げてしまいそうになりました。過去の数々のロボット映画の中では絶対に不可能として描かれてきた”意識の解析”が成功し、更にそれを解析したのは人間ではなく、人間に造られた人工知能であるチャッピーである、という事実。

このシーンの描き方が非常に印象的でしたなぁ。

 

ちなみに、そのシーンを受けて個人的に妄想してみた事が。

これは極端な例かもしれませんが、例えば、犬は自分たち犬の事を客観的に見ることができないため犬というものを完全には理解しきる事ができないように、僕たち人間も僕たちが”人間”である限り、決して自分たちの全てを分析・理解することはできないのではないか?と。そして、もし近い将来にそれを成し遂げる事があるとすると、それを成し遂げるのは人間を俯瞰的・客観的に捉えることができるドロイド、もしくは人間ではない何かの生物なのかもしれないなぁ…なんて考えさせられたりしました。

「人間」であるディオンが作った「ドロイド」のチャッピーが、人間には決して思いつかなかった方法で人間を救う。こんな世界って実は、決して遠い世界のお話ではないのかもですね。

刺さるセリフの数々と共感の連続

更に、この作品の中のセリフには、生きる事について、更には、人間とはどういった存在なのか?という事について改めて深く考えさせてくれるような、そんなセリフが多々散りばめられておりました。

例えば、ママことヨーランディがベッドの中でチャッピーに子供用の絵本の読み聞かせをする際に言った、「大切なのは見た目じゃなくて、中身なんだよ」というセリフ。

ヒューマンドラマ系作品ならば心の持ち方の大切さを説くようなこのセリフも、SF作品である本作中では、言葉通りに中身の大切さを考えさせられる衝撃の、かつ、セリフの重さをしっかりと感じさせるような無駄のない展開が続きます。

作中では実際にラストの場面にてディオンの中身(意識)がドロイドの身体に移る事となりますが、とはいえ例えば、もしも現実世界にて、自分にとって大切な人の姿カタチが今と全く別モノ、更に言うのであれば人間でさえなくなってしまったのだとしたら、自分は今までと何も変わらずその人と接する事ができるのだろうか?または、自分自身が人間の身体を捨てて、他の生物、または生物でもない物体に意識を移してまで生きながらえる事に、果たして意味はあるのだろうか?

などなど。

また、「何故、人間は嘘をつくんだ!?」という、後半の銃撃戦の最中にてチャッピーが言ったセリフにも考えさせられましたなぁ。確かにその通りなんだよな…と。

登場人物に感情移入しながら映画を見るタイプの僕は、人間であるディオンやヨーランディの立場にズドンと深く共感する一方、ドロイドであるチャッピーの立場に立っても不思議と違和感なく共感できてしまうような共感の連続である展開に、思わず一瞬「自分って一体、何なんだろう…?」と考えてしまうほどに不思議な錯覚を覚えました。

「人間らしさ」って何だろう?

そして元軍人のエンジニアである「ムーア」役のヒュージャックマンも、人間らしい成長を遂げる人工知能であるチャッピーとの対比として、非常に考えさせられるポイントでしたね。

「自らの考えの絶対正義を証明したいがために、人間の倫理に背く手段を使い他人を蹴落としてまでのし上がる」という行動がいかにも人間臭く、それでいてそのムーアの暴走を止めるのが、人間ではなく、ドロイドであるはずのチャッピー、という対比構図が凄く光りました。更には、ムースを通して何人もの人間を殺害したムーアを、最後にはチャッピーは殺さずに許します。

ムーアとチャッピーの行動。果たしてどちらが人間らしいと言えるのだろうか?と考えさせられました。

ロボットの動きや考え方を人間の複雑なそれに近づける研究開発はどんどん進んでいるけれども、一方で仕事やプライベートを問わず何に対してもやる気が出せず、まるで「機械」のような単純作業を好む人が増えているような印象もある昨今。

どちらを幸せと呼ぶのかは、人それぞれなのかな。

まとめ

良い意味で期待を裏切ってくれた作品でした。チャッピー。

鑑賞後に多くの方が考えてみた事かもしれませんが、「もし自分がディオンの立場であったのならば、果たして自らの身体を捨ててまで生き続ける事を選ぶのだろうか…?」という疑問。

やり残した事を満足がいくまでトコトン追求できるという意味では、身体にこだわらずに永久に生き続ける(活動し続ける?)事にも大きな意味があるのだとも思う一方で、「死」という概念が無くなるということは、永遠に存在し続ける自分がやる事には果たして何の意味があるのだろうか?なんて事も考えてしまうし。

答えは…簡単には出ませんね。

 

ただ一つ思う事は、僕らの「意識」とはつまり言い換えると、「考えることができる事」を指すのかもしれないなということ。当たり前で当然に思える事でも、プログラムの範囲内でしか行動することができない機械には絶対に出来ない、とてもとても幸せな事なんだろうなと思いました。

ニール・ブロムカンプ監督の「第9地区」、見てみよ。